- 明智光秀と天海の生涯が知りたい
- 明智光秀=天海と言われる理由が知りたい
- 明智光秀と天海に関する作品が知りたい
織田信長を裏切り「本能寺の変」を起こしたとして知られる明智光秀。生き残って江戸幕府を支えていたという説があるのをご存じでしょうか?実は明智光秀は、徳川家康に信頼されていた僧侶の天海ではないかとささやかれています。
この記事では、明智光秀と天海の生涯、ふたりが同一人物だと言われる理由について説明します。本当に同一人だったらロマンがありますよね。アッと驚くような考察をピックアップしたので、ぜひ最後まで楽しんでご覧ください。
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明智光秀=天海説はでたらめの可能性が高いが……?
本能寺の変で有名な明智光秀は、そのあと秀吉に敗れ、生涯を終えたと言われています。
明智光秀=天海という説は、それを裏付ける明確な根拠がなく、事実ではない可能性が高いです。しかし、まったくのでたらめとは言い切れません。同一人物ではないとしても「何らかの関わりがあったのでは…?」と考察してみるのも面白いでしょう。
明智光秀と天海、2人の生涯について
ここでは、明智光秀と天海、ふたりの生涯や功績について紹介します。共通して言えることは、どちらも賢く才能に満ち溢れていたということです。まずは、明智光秀と天海がどんな人物だったのかをザックリと確認してみましょう。
明智光秀の生涯と業績
明智光秀の生涯
名前 | 明智光秀 |
---|---|
生年 | 永正十三年(西暦1516年)*所説あり |
没年 | 天正十年(西暦1582年)*所説あり |
職業 | 侍 |
明智光秀は、現在の岐阜県にあたる美濃国で生まれたとされるのが通説です。しかし、出生やその半生については謎に包まれている部分が多く、詳しくはわかっていません。
美濃では斎藤道三に仕えていましたが、主君が滅ぼされると浪人となり各地を転々とする生活を送っていたそうです。その頃に鉄砲の知識や教養などを身に着けたと言われていますが、医者をしていたという説もあり、明智光秀の頭脳明晰ぶりが伺えます。
そのあと、越前(現・福井県)に渡った明智光秀は朝倉義景に仕え、足利義昭や織田信長と接点を持っていくのです。義昭と信長の元で仕える両属の状態を経てから、義昭を見限り、織田信長の家臣となりました。
そして、歴史的に有名な本能寺の変につながります。織田信長を討ったそのわずか11日後、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れた明智光秀は、逃げる途中で落武者狩りに遭い、その生涯を終えたのです。
明智光秀の功績
明智光秀は、政治や戦略に長けた戦上手といわれる一方で、連歌や茶の湯、医学の知識など幅広い教養を身に着けていたとされています。
そんな明智光秀を語るうえで欠かせない功績は次の通りです。
- 金ヶ先の退き口
- 比叡山延暦寺焼き討ち
- 本能寺の変
「金ヶ崎の退き口」とは、織田信長が金ヶ崎城を討ったあと朝倉氏の本陣を討つべく一乗谷に向かったとき、同盟だった浅井氏に裏切られ挟み撃ちにされ撤退したエピソードです。
明智光秀は絶体絶命のなかで、豊臣秀吉らと殿(しんがり)をつとめ朝倉氏からの追撃を食い止めます。被害を最小限にし生還したその功績で、のちに宇佐山城を与えられました。
「比叡山延暦寺焼き討ち」では、実行部隊として活躍。信長からは厚い信頼が寄せられていましたが「本能寺の変」で織田信長を襲い、歴史にその名を刻みました。
天海の生涯と業績
天海の生涯
名前 | 天海大僧正 |
---|---|
生年 | 天分五年(西暦1536年) |
没年 | 寛永二十年(西暦1643年) |
職業 | 僧侶 |
天海は陸奥国(現在の会津)の出身で、幼いころに龍興寺にて出家し天台宗を学びました。そのあとは全国各地の寺院で修行を積んだとされていますが、天海の前半生については根拠となる資料がほとんど残っておらず、謎に包まれています。
徳川家康の側近としてその名を轟かせ、徳川将軍三代に渡り参謀を勤めあげました。焼き討ちされた比叡山延暦寺の復興と再建に関わったことでも有名です。108歳で没したあと、朝廷より「慈眼大師」の名を送られました。
天海の功績
徳川家康から信頼され、徳川将軍三代に渡って参謀を勤め上げ「天海が徳川幕府300年の礎を築いた」といわれるほどの功績を納めます。僧侶であるにも関わらず、甲冑をつけ「関ヶ原の戦い」にも参戦したそうです。
家康の死後は「権現(日本古来の神々が人々を救うために仮の姿であらわれたもの)」という考え方を広め、家康を日光東照宮に祀りました。
上野寛永寺の設立や、織田信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺の復興再建、日光東照宮の創建にも関わっています。生前に企画した経典の出版も偉業のひとつでしょう。
明智光秀=天海説がささやかれる理由
理由①天海が名付けたとされる地名「明智平」から
栃木県日光市には雄大な景色が広がる明智平があり、現代においては観光スポットとして有名です。この明智平は、天海が名付けたという伝承があります。
本当に天海が明智光秀だったら、自分の名前を地名として残しておきたいと思うかもしれません。しかし、明智平の命名が天海であったという伝承があるだけなので、事実かどうかは判断できませんし、天海=明智光秀の根拠には弱いです。
もし仮に、天海が明智の名を付けたのだとしても、明智というのは知が明らかにあるという仏教用語でもあるため、不自然ではないでしょう。
理由②比叡山や日光東照宮に光秀の名前や家紋があるから
1615年に贈られた比叡山松禅寺の石灯篭には、光秀という人物の名前が記されています。明智光秀の死後30年あまり経過しているので、実は明智光秀が生きていた証拠と言われていますが、石灯篭に記された光秀が明智光秀である証拠はありません。
1617年に天海が創建した日光東照宮の陽明門には、明智家の家紋「桔梗紋」があると言われています。桔梗紋や織田家の木瓜紋によく似ていますが、実際には袴に使われる一般的なデザイン「かにあられ文」だという説が濃厚です。
理由③関ヶ原合戦図屏風に天海が描かれているから
関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の関ヶ原合戦図屏風には、家康本陣に鎧を着た天海と思われる人物が描かれています。僧侶でありながら、徳川家康の頭脳として戦地に赴いていることから、実は明智光秀だったのではないかと言われているのです。
しかし、関ヶ原合戦図屏風の成立は嘉永7年(西暦1854年)。関ヶ原の戦いから250年も経ってから描かれた絵に信憑性などないでしょう。実際に、天海が関ヶ原の戦いに参戦していたかも断言できません。
理由④光秀の部下や子孫と江戸幕府の関わりから
江戸幕府と関わりのある人物として、春日局(かすがのつぼね)や三沢局(みさわのつぼね)が挙げられます。ふたりは徳川家光と徳川家綱の乳母として、幼いころの家光と家綱の母替わりを務めていました。
実は、そんな彼女たちは明智光秀に関係しています。春日局は本能寺の変を起こしたひとり斎藤利三(さいとうよしみつ)の娘、三沢局は明智光秀の部下である溝尾茂朝(みぞおしげとも)の孫なのです。
徳川家を継ぐものたちの乳母がそろって明智光秀と関係していることから、天海=明智光秀だった場合、天海が裏で糸を引いているのではないかと考えられています。しかし、やや強引でこじつけのようです。
理由⑤徳川家将軍と光秀の名前の字が共通しているから
徳川家二代目将軍徳川秀忠に「秀」、三代目将軍徳川家光に「光」の文字が使われていることから、明智光秀の「光」と「秀」という字から命名したのではないかと言われています。
しかし、秀忠の「秀」は豊臣秀吉から、家光の「光」は金地院崇伝が選んだとされている説があるので、明智光秀とは無関係の可能性が高いです。
理由⑥光秀の味方をしなかった筒井家が改易されたから
明智光秀が敗れた山崎の戦いで、光秀の味方をしなかった筒井家が1608年に改易されたことについても、天海が手をまわしたのではないかと言われています。天海が明智光秀だった場合、山崎の戦いで自分の味方をしなかったものには処罰を与えて当然でしょう。
ただ、筒井家が改易された理由は、筒井定次の素行が悪かったこととキリスト教信者だったこと。山崎の戦いからは25年余り経っていますし、天海の関与は考えづらいです。
理由⑦童謡「かごめかごめ」の歌詞から
「かごめかごめ」は昔から伝わるわらべうたとして、知っている人も多いですよね。何気なく歌っていた歌詞ですが、よく聞き返してみると意味がサッパリわからないです。
実は、この「かごめかごめ」の歌詞が明智光秀のことを指していると言われています。
- 籠の中のとり=明智光秀の祖先土岐氏のこと
- いついつでやる=明智光秀の出現を期待している様子
- 夜明けの晩=日の出(日光東照宮?)
- 鶴と亀=天海(鶴は天、亀は海)
- すべった=統った
上記のような解釈ができるというもので、鶴と亀の解釈を変えて、鶴=敦賀、亀=亀岡とすると明智光秀の領地となるそうです。強引な説ですが、まるで明智光秀が天海として江戸幕府を統一する様子が歌詞に込められているようで夢がありますね。
大河ドラマで見る明智光秀=天海説
NHK大河ドラマでは、明智光秀が主役の「麒麟がくる」や天海が参謀として活躍した時代の「どうする家康」などが放送されました。ここでは、大河ドラマで登場した演出や設定について簡単に紹介します。
麒麟がくる
2020年に放送された大河ドラマ「麒麟がくる」では、美濃に生まれた明智光秀の生涯が、本能寺の変や山崎の戦いで敗れるところまで描かれています。
ドラマのラストでは、明智光秀が生き残っている可能性を示唆するシーンがあり、明智光秀=天海説を後押しするような結末だったことで話題になりました。
当時のSNSでは、2023年に放送予定だった「どうする家康」の天海役に明智光秀を演じた長谷川博己を推す声が多数。明智光秀=天海がドラマで見られることに期待が集まりました。
どうする家康
「どうする家康」は、2023年放送の大河ドラマ。室町時代後期から江戸時代における徳川家康の波乱万丈な人生を描いた物語です。最終回では、小栗旬さんが演じる少しお茶目な天海大僧正が登場し話題となりました。
作中では、明智光秀=天海を思わせる演出は特に見当たりません。「麒麟がくる」の明智光秀役、長谷川博己さんが天海を演じることは叶いませんでしたが、明智光秀が夢見た世を大河ドラマを通して感じてみてはいかかでしょうか?
明智光秀と天海に関連する作品
明智光秀と天海は多くの偉業を成し遂げたこともあり、関連する作品が複数あります。明智光秀と天海について、もっといろんな視点から楽しみたいと思った方は、ぜひゲームや映画、アニメなども見てみるとよいでしょう。
戦国BASARA4 (通常版) PS3
戦国BASARAシリーズは、カプコンから発売されているアクションゲーム。戦国時代の有名武将が数多く登場し、実際の歴史に捕らわれない大胆なアレンジが魅力です。
そんな同シリーズでは、明智光秀=天海という説を採用しており、戦国BASARA3で突如現れた天海の見ためが明智光秀にそっくりだったことで話題を呼びました。
信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~
ヤングチャンピオンで連載されていた漫画で、コミックは全8巻。明智光秀の子孫といわれる歴史研究家の原作をコミカライズした本作は「400年の時を経て本能寺の変の真実に挑む」がテーマです。
本能寺の変を中心に、明智光秀の生涯について丁寧に描いている一方で、自分が知っている歴史とは違う切り口で進む物語にだんだんと引き込まれていくでしょう。
明智光秀=天海の解釈は自分次第
この記事では、明智光秀が天海だと言われている理由や、ふたりの生涯について紹介しました。明智光秀を天海だと裏付ける証拠は不十分で、同一人物である可能性は低いでしょう。
ただし、明智光秀と天海が同じ時代を生きていたことは事実なので、ふたりがどこかで繋がっていたという可能性も否定できません。
大河ドラマや歴史を題材としたゲームでは、明智光秀=天海説を取り入れているものもあります。自分なりの解釈で楽しんで追及すると、新たな発見があるかもしれませんよ。