金の歴史を解説!世界と日本での金の発見や価値・扱われ方

  • 2025年3月6日
この記事で解決できるお悩み
  • 世界や日本における金の歴史を知りたい
  • 世界や日本における金貨の歴史を知りたい
  • 金相場の歴史を知りたい

本記事では、金や金貨の歴史について解説します。金には古い歴史があり、古代文明から装飾品に利用されるなど重要な役割を果たしてきました。

日本でも金が発見された歴史があり、「黄金の国ジパング」と呼ばれていたことをご存知の方も多いでしょう。

金は今も価値が高い現物資産として取引されており、今後も価値を持ち続けるといわれています。金貨や金相場の歴史についても解説しているので、金の歴史に興味がある方はぜひ参考にしてください。

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世界における金の歴史

金の歴史はとても古く、その始まりは紀元前にまでさかのぼると言われています。貨幣としての価値、装飾品、建造物など、はるか昔より、金は私たち人類のそばで営みを共にしてきました。

金の歴史をひとつずつ、紐解いてみましょう。

古代文明における金の歴史

金の歴史の起源は古代文明にあるというのが、現在の通説とされています。それでは、金はどのようにして発掘され、文化として根付いたのでしょうか。

古代文明の流れと、それぞれの時代における金との関係性について紹介します。

もっとも古い歴史はシュメール文明

古代文明 ヒエログリフ
歴史上で金製品の存在が確認できたもっとも古い記録は、紀元前6000年頃のシュメール文明だとされています。

シュメール人によって作り上げられたシュメール文明は、チグリス川とユーフラテス川の流域にある、メソポタミアで栄えました。シュメール人に関しては謎が多く、いまだに解明されていません。

シュメール人は、文明の発展に多大な影響を与えたとされています。彼らは「アヌンナキ」と呼ばれる宇宙人によって創造されたため、さまざまな知識を持っていたとする説が有力です。

シュメール文明において、世界で初めて金の装飾品が発見されました。「アヌンナキは金を採掘するために地球に来た」という文言が残されていることからも、シュメール人と金の発掘の関連性は濃厚とされています。

黄金文明と呼ばれた古代トラキア

ゴールドスーク
紀元前5000年~3000年頃、現在のブルガリア地方にてトラキア文明が発展しました。周辺のペルシャ文明やギリシャ文明との交流のなかで、トラキア人によって育まれた独自の文明です。

トラキア文明は、別名「黄金文明」と呼ばれています。その由来は、1972年にブルガリア東部のヴァルナ遺跡から多数の金製品が発掘されたためです。

王笏(おうしゃく)と呼ばれる杖や、ネックレス・指輪といった装飾品など、品目は多岐にわたります。いずれも高度な技術で加工されていることから、金製品への造詣の深さや優れた技術力を有していると言えるでしょう。

また、2004年には、トラキア王が身に着けていたとされる黄金の仮面も発掘されました。トラキア文明が黄金文明と呼ばれるのは、豊富な金とともに発展した文明だからなのでしょう。

ツタンカーメンのマスクで有名な古代エジプト

ツタンカーメンのフィギュア
エジプト文明は、紀元前5000年頃に生まれ、紀元前3000年頃エジプト王朝によって国全体が統一されました。エジプト文明と金製品の間には、密接な繋がりがあったとされています。

1922年に、「ツタンカーメン王の黄金マスク」が発掘されました。この黄金マスクは、紀元前1300年頃に作られたもので、現在の価値に換算すると300兆円にも上ると言われています。

また、ツタンカーメン王の棺にも100キロを超える金が使用されました。これらのことから、ファラオ(王)は権威の象徴であり、ファラオにまつわる装飾品には、惜しげもなく金が用いられていたことがわかるでしょう。

エジプト文明では、太陽神ラーを崇拝する「太陽信仰」が主流でした。太陽信仰において、金は太陽神ラーの体の一部とされるほど重要なものであり、祭祀や儀式に欠かせないものなのです。

中世ヨーロッパにおける金の歴史

12~13世紀になると、中世ヨーロッパでは金細工の技術発展が盛んになります。同時に、金の保管方法が確立され、現在もつづいている銀行業の先駆けとなりました。

中世ヨーロッパにおける金の歴史を、詳しく見ていきましょう。

金細工技術の発展と銀行業の始まり

聖堂の金細工
中世ヨーロッパでは、装飾品としての金の存在感がより大きくなり、人々の間で人気が高まっていきました。それに付随するかたちで金細工師の需要も高まり、金細工の加工技術も向上していったのです。

やがて、金細工は加工技術だけでなく、その保管方法も変化し、発展していきます。金を取り扱う金細工師が「いかに安全に大量の金を保存できるか」を模索するのは必然といえるかもしれません。

しかし、自分が所持する金細工の保管方法に悩んだ市民もまた、金を安全に保管する手段に注目し始めます。そういった流れで誕生したのが銀行業でした。

そして、金を預ける市民、預かり証を渡す金細工師、という流れが生まれます。中世ヨーロッパ時代に誕生したこのシステムが、現代の銀行業の先駆けだったのです。

錬金術の研究が盛んになる

金は流通量が少ないため、相対的に価値が上がります。そこで、科学的な方法で金を生み出せないかと考えた人がいました。「錬金術師」と呼ばれる人たちです。

錬金術の起源は紀元前1世紀頃、古代エジプトや古代ギリシャと言われています。当時は、鉛や鉱物に化学薬品を加えるなどの手法がとられました。

さまざまな科学者が錬金術を学び、研究に励んだと言われています。万有引力で有名なアイザック・ニュートンもそのうちのひとりです。

最終的には、金を生成することはかなわず、現代では錬金術が不可能であると実証もされました。ただ、当時試行錯誤された研究の数々は、現代の化学に大きく貢献したそうです。

大航海時代と金の深い関わり

15~17世紀にかけて、ヨーロッパは世界中へと発展を進めていきます。のちに大航海時代と呼ばれるその時代をけん引したとされる人物が、アメリカ大陸を発見したコロンブスでした。

では、大航海時代と金にはどのような関わりがあったのでしょうか。

黄金を探し求めた理由

コロンブスは、ヴェネツィアの探検家マルコ・ポーロの「東方見聞録」を読み、黄金の国ジパングを探し始めました。「黄金の国」の正体は諸説ありますが、日本の中尊寺金色堂ではないかとの説が有力と言われています。

また、実際にはマルコ・ポーロは、日本に降り立ったことはないようです。当時の日本の貿易に砂金が用いられていたことが関係しているのでは、という説もあり、いずれも真偽は不明のままとなっています。

インカ帝国の滅亡

マチュピチュ
アンデス山脈に位置するインカ帝国は、「黄金の国」と呼ばれていた大きな国でした。のちのマチュピチュ遺跡としても知られています。

インカ帝国は、推定320兆円以上の資産を誇る豊かな国でした。しかし皮肉にも、それが原因でスペインの軍人に狙われ、当時の皇帝が拘束されてしまいます。皇帝はそのまま処刑され、1533年にインカ帝国は滅亡しました。

やがて、スペイン軍から逃れた王族が、新たな土地で建国したという噂が流れます。エル・ドラード(黄金の人)と呼ばれたその国は、しかし、どこを探しても見当たりません。

1800年代初頭、ひとりの探検家により、エル・ドラードは実在しないことが明らかになります。幻の王国は、最後まで幻だったのです。

世界経済を動かしたゴールドラッシュ

1800年代のアメリカ・カリフォルニア州で、世界中を巻き込む、ある出来事が発生しました。ゴールドラッシュと呼ばれたその大騒動は、とある場所で金が見つかったことがきっかけで起きたとされています。

世界を巻き込む騒ぎとなったゴールドラッシュとは、どんなきっかけで起こったのでしょうか。

起きたきっかけ

1848年のカリフォルニア州で、ジェームズ・マーシャルという人物が、製材工場の水路を掘っていた際に金を発見しました。金採掘のニュースは瞬く間に広がり、国内外から人々が押し寄せる事態へと発展します。

一攫千金を求めて、カリフォルニアへ移住する人が世界各地から集まりました。とくに多かった民族は、中国人だったと言われています。

また、アメリカ以外では、1851年にオーストラリアのシドニーで砂金が見つかりました。オーストラリアでは多量の金が発掘され、1858年には69キロの金塊が採掘されたそうです。

影響

ゴールドラッシュはその土地に、さまざまな影響をもたらしたとされています。

カリフォルニアでは、人口増加に伴って道路や学校などインフラの整備が進みました。金が発掘された地点が史跡になるなど、観光地として経済発展にも繋がっています。

しかし、その経済発展は良い面ばかりではありませんでした。人口の増加でネイティブアメリカンが行き場を失ってしまったのです。

また、アメリカへ移住した大勢の中国人たちは、金の採掘量が下降していくにつれ存在を疎まれはじめ、中国人排斥法が施行されるまでに発展しました。

日本における金の歴史

昔の硬貨
現在、私たちは日常的に貨幣に触れています。日本で貨幣が発展するまでには、どんな経緯があったのでしょうか。そして、日本ではどのように金が発見されたのでしょうか。

日本における金の歴史を、ひとつずつ紐解いていきましょう。

日本での金の発見

平安時代の歴史書「続日本紀」によると、日本で初めて金が見つかったのは749年のことでした。

752年、聖武天皇によって東大寺が建設されます。大仏の造立に150kgもの金メッキが使用されましたが、途中で金が不足する事態に陥ってしまいました。

遣唐使の派遣が検討されるなど、状況は深刻でしたが、幸運にも、陸奥守(かつて存在した令制国である陸奥国の国司)によって新たな金が発見されます。その功績に、政府や天皇は「まさに神仏の加護によるものだ」と歓喜し、現地人など功労者への叙位がなされたということです。

「黄金の国ジパング」と呼ばれた理由

マルコ・ポーロの東方見聞録には、「ジパング」「大陸から千五百マイルの大洋中にある、とても大きな島」「この国ではいたる所に黄金が見つかる」などの記載があります。

ここで言及されている黄金とは、岩手県の中尊寺金色堂のことであるとの説が濃厚です。実際には、マルコ・ポーロが日本を訪れた形跡は見当たらず、当時貿易で使用していた砂金のことを指しているとの一説もあります。

それでも、ヨーロッパの人々にとって、黄金の国=ジパング(日本)という未知の存在は、とても魅力的なものだったのでしょう。

日本最大の金脈として知られる佐渡金山

古くから日本有数の金銀山であり、豊富な金脈として知られているのが、佐渡金山です。

江戸時代、佐渡金山で金や銀の鉱脈が発見されました。当時の将軍・徳川家康が直轄領に指定したことで、佐渡金山は金銀の採掘が継続的におこなわれるようになります。日本版のゴールドラッシュといえるでしょう。

これにより佐渡金山は江戸幕府を財政面で支えますが、江戸時代中期ごろから金の発掘量が下降し始めます。そこで明治政府は1869年に、佐渡金山発掘を近代化させるため、西洋技術者を佐渡へと送りました。

さらに、技術者を増やすために金採掘を専門とする学校を開校し、基盤強化を図ります。その甲斐あって、佐渡金山の採掘量は底上げされました。

そして1989年、佐渡金山は400年間もの稼働期間を経て、資源枯渇によりいったん操業を休止することとなります。

金貨の歴史

貨幣という価値観が誕生したのは、古代文明にまでさかのぼるといわれています。そのあといくつかの変遷を経て、貨幣は「金貨」として姿を変えました。

世界の、そして日本の金貨は、一体どのようにして誕生したのでしょうか。

世界最古の金貨

古代メソポタミア文明や古代エジプト文明では、当初、家畜や穀物を通貨としてやりとりする「商品貨幣」という考え方が主流でした。物品を直接持ち込み、取引をすることで経済を回していたのです。

しかし、商品貨幣では家畜などの用意に手間がかかることから、新しく「鋳造貨幣」が誕生します。これは、金や銀などの金属を貨幣として扱うものです。

世界最古の金貨は「エレクトロン貨」と呼ばれ、紀元前670年頃にはすでに存在していたといわれています。エレクトロン貨は純金とは違い、わずかに銀を含んだ自然銀で作られた金貨です。

日本における金貨の歴史

日本最古の金貨

日本最古の流通貨幣は、銅や銀でできた「和同開珎」だとされています。金が貨幣として使用され始めたのは、鎌倉時代に入ってからでした。砂金のまま持ち歩き、重さをはかって取引をおこなっていたのです。

室町時代には、明の国から輸入した貨幣が使用され始めます。また、南蛮貿易により貨幣の精錬法が伝わったことで全国で鉱山開発が進み、金が盛んに採掘されるようになりました。金判が流通し始めたのはこの頃からです。

安土桃山時代には、豊臣秀吉が金判による天下統一を図り、日本最大の金貨と言われる165グラムもの天正大判を鋳造しました。そして、江戸時代に入ると両、分、朱という通貨単位が新たに制定されます。

明治時代に入ると日本銀行が設立され、ここではじめて「円」という貨幣単位が誕生しました。このように、日本の金貨は時代によって多種多様に変化してきたのです。

鎌倉時代

鎌倉時代は日本における金貨の歴史がはじまった時代といわれています。ただし、鎌倉時代はまだ鋳造貨幣として金貨が使用されていませんでした。

当時は加工していない砂金の状態で袋や竹筒、奉書紙などに入れて持ち歩き、金の重さを量って取引に使用していたようです。また、宋(当時の中国)に砂金を輸出し、代わりに宋銭を輸入して貨幣として使用していました。

室町時代

室町時代もはじめは日本国内で貨幣を鋳造しておらず、明(当時の中国)の貨幣「永楽通宝」を輸入して使用していました。しかし室町時代後期には日本各地で金山や銀山の開発が進んで「丁銀」という貨幣が商取引用につくられるようになります。

また、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易が盛んになり新しい精錬法が伝えられると、全国の大名が鉱山開発を進めて金が多く産出され、各地で金貨が多くつくられました。

安土桃山時代

安土桃山時代に天下統一を果たした豊臣秀吉は、経済の統一も図り金貨や銀貨をつくります。豊臣秀吉がつくった金貨としては、「天正長大判」「天正菱大判 」などの天正大判が有名です。

天正大判は重さ165gあり、世界最大級の金貨といわれています。しかし、天正大判は主に功績をあげた臣下への褒美用や大名・公家間の取引に使用されており、庶民は明銭や粗悪なびた銭を使っていました。

江戸時代

江戸時代に入ると、徳川家康が金貨をつくる「金座」を設置し、両・分・朱という通貨単位を定めるなど、金貨の品質や重量を統一化します。当時主に流通していた「慶長小判」は、金の純度86%、重さ18gの基準でつくられていました。

江戸時代に主につくられた金貨は大判、小判、一分金(1両の4分の1の価値を持つ)の3種類です。大判は主に褒美用として使用され、貨幣として流通した金貨は小判と一分金でした。

小判の金含有率は、56~87%と製造時期によって異なります。江戸時代中期以降は金の産出量減少と国外への金流出により、幕府が小判の金含有率を大きく下げたためインフレーションが起こり、庶民の生活困窮を招きました。

明治時代

明治時代には日本銀行や造幣局が設置され、通貨単位が「円」になり、金貨の形も小判型からコイン型へ変更されます。

明治4年の新貨条例発布を機に金本位制が導入され、1円の貨幣価値が純金1.5gと定められ、純度90%の本位金貨として1円・2円・5円・10円、20円金貨がつくられました。

明治30年になると、新しい貨幣法が施行されて正式に金本位制がスタートします。新金貨が発行されましたが、1円の貨幣価値が金0.75gと半減されたため、明治30年以前に発行された旧金貨は額面の2倍で取引されました。

旧金貨のうち「旧20円金貨」は直径35mmと大型で希少価値も高く、近代貨幣の王様と呼ばれています。

大正時代

大正時代も、明治時代に引き続き新金貨の5円・20円が発行されました。しかし、第一次世界大戦が始まりヨーロッパ各国が金の輸出を停止し、日本でも大正6年に大蔵省令により金の輸出が事実上禁止され、金本位制を停止することになります。

その後も大戦後の不況や関東大震災などによって金本位制の復活・継続がむずかしくなり、金本位制が撤廃されて金貨の製造も停止され、不換紙幣が発行されることになりました。

大正時代以降は、金貨に代わってアルミ・ニッケル・銅などを使用した貨幣がつくられるようになります。

金相場の歴史

これまで世界では、金相場をめぐり、さまざまな出来事が起こりました。「通貨」という目に見えないものをどのようにして扱うべきかを、世界中の国々で模索してきた歴史といえるかもしれません。

金相場の歴史を、ひとつずつ解説していきましょう。

金本位制

金本位制とは、金を通貨の価値基準とする制度で、1816年イギリスで初めて採用されました。価値の変動が少ない金を基準とし担保とすることで、国同士の取引をスムーズにおこなうための制度です。

日本も1897年から金本位制を導入していました。しかし、1914年に勃発した第一次世界大戦、1971年に起きたニクソン・ショックなどを経て、次第に各国が金本位制から離れていきます。

そして、1973年には先進国の大半が金本位制から離脱してしまいました。

金本位制はメリットが多い反面、非常事態が起きたとき融通がききにくいというデメリットがあります。経済危機や戦争が頻発していた当時の状況においては、金本位制の崩壊は必然だったのかもしれません。

変動相場制

1970年代に金本位制の時代が終わりを迎えたため、各国は次第に変動相場制へと移行していきました。

変動相場制では、これまでの固定相場制とは違い、金の価格が日々変動します。為替価格によって金価格が左右されるので、市場の需要次第で金の価値が変わる、と言い換えることもできるかもしれません。

変動相場制の特徴は、世界情勢の動きによって相場が変動しやすいという点です。一般的には、情勢が悪化するほど相場が上がり、情勢が安定するほど相場が下がるという傾向にあります。

近年のように、世界を揺るがすニュースが頻繁に起きている状況だと、金の価格もそのぶん変動が激しくなるでしょう。気になる方はニュースをチェックしてみるのもいいかもしれません。

金は今後も価値を持ち続ける

金は、最初に発掘されてから今日にいたるまで、その価値を保ちつづけています。価値が変わらない要因には、どういったものがあるのでしょうか。

  • 希少価値が高い
  • 汎用性がある

金は発掘される量が限られており、今後大幅に増えることは考えにくい素材です。そのため、希少性が高く、価値も保ち続けるでしょう。

また、金はほかの鉱物に比べて加工がしやすく、さまざまな製品に取り入れることができます。装飾品はもちろん、家電製品や医療機器などにも活用が見込まれ、需要の高い素材と言えるでしょう。

金の歴史に触れ、金とともに生きていこう

金の歴史はとても長く、その用途は、時の流れとともに変化しています。

古代では王族の権力の象徴でしたが、やがて装飾品として人々が触れる機会も増えてきました。今では通信機器などにも採用されるほど、日常的で身近な存在になっています。

金は、姿かたちを変えながらも、その価値は今なお変わることがありません。不安定な世界情勢のさなかでも、きっとあなたのそばに寄り添い続け、心強い味方となってくれるでしょう。

木暮康雄 (監修者)

ウリドキ株式会社代表取締役。ウリドキプラスの発行人でもある。
リユース業界での起業・事業運営の経験が豊富でリユースの専門家としてのメディア出演歴も多数。
著書に「リユース革命」(幻冬舎)。自身が運営する「リユースチャンネル」は登録者数1万人を突破。

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