マルコポーロが記述した東方見聞録には「黄金の国ジパング」という「資源に富んだ国」として日本のことが紹介されていました。
しかし、東方見聞録に記載されている「黄金の国ジパング」は、当時の日本とは異なる事実が記述されています。
本記事を読む方は「黄金の国ジパング」はなぜ生まれたのか、なぜ日本だと考えられているのかを知りたい方もいるのではないでしょうか。
この記事では、東方見聞録の内容を紹介しながら「黄金の国ジパング」について解説します。
黄金の国ジパングが登場する東方見聞録とは
東方見聞録では「黄金の国ジパング」は「資源に富んだ国」と書かれており、これらの内容は当時の日本のことを指していたと言われてます。
ここでは、まずは東方見聞録について解説するので参考にしてください。
東方見聞録の概要
東方見聞録は、イタリアの商人マルコポーロが書いたとされる旅行記で、内容はマルコポーロが1271年から1295年の24年間の間にアジアの旅をした記録です。西洋世界から見ると当時の東洋世界に対する情報は少なく、「未知の辺境」として考えられていました。
東方見聞録のなかには、「資源に富んだ国」として日本のことを「黄金の国ジパング」と書かれています。日本は島国という海で囲まれた国であり、日本に対する情報は多くはありませんでした。
「黄金の国ジパング」は、当時の日本の事実と異なる部分もいくつかあり、こうした時代背景によって生まれたものだと考えられています。東方見聞録に書かれた内容は、のちの世界に対して影響を与える面もありました。
東方見聞録は旅行記ではない?
東方見聞録では、マルコポーロが実際に見た物事だけではなく、他人から聞いた情報も記載されており、「旅行記」ではないという見方もされていました。
「黄金の国ジパング」についても、明らかな誇大表現と思われる記述もあり、どちらかというと中世で読まれていた「百科事典的伝統」としての性格が強いと言われています。
当時の西洋世界では、東洋世界に対しては幻想的なイメージがあり「犬の頭を持つ人種」「頭がない人種」がいるともされてました。
ほかにも「宝石の豊かさ」などの「富」についても語られており、「黄金の国ジパング」は、このような感覚から生まれた黄金幻想の可能性が大きいと考えられています。
ジパング伝説は中国・イスラムから伝わった
当時の西洋政界では、東洋世界は未知の辺境と考えられており、日本も同様に「富」や「グロテスク」といった印象を持たれていたようです。イスラムでは、9世紀以来「ワクワク」と呼ばれる「黄金国の伝説」の噂が広がっていました。
この「ワクワク」というのは、中国語で日本の名称にあたる「Wa-quo(倭国)」のことを指すそうです。
実際に、マルコポーロが日本に関する情報を仕入れていたのは中国の泉州であり、泉州にはイスラム商人の貿易基地がありました。
マルコポーロはここから仕入れた情報で「黄金の国ジパング」を記述したとも考えられていて、ジパング伝説は中国・イスラム商人が作り上げたものであるとも言われています。
東方見聞録が世界に与えた影響
東方見聞録には、日本には食人文化があると記載されており「日本は捕虜を料理して人肉を好んで食べる」と書かれていました。
実際には日本に食人文化は存在せず、当時の飢饉などの貧しい状況にあった背景や東南アジアなどの情報が入ったことで、間違って書かれた内容と考えられているそうです。
この食人文化の情報は、東方見聞録を読んだ人に大きな影響を与え、日本が謎に満ちた国と見られてたことも合わさって、当時の日本は攻め込まれなかったと言われています。
日本が「黄金の国ジパング」であったとされる理由
マルコポーロが、日本を「黄金の国ジパング」と東方見聞録に記述したのには、当時の日本にあった文化が伝わって書かれたとされており、奥州にあった中尊寺金色堂や朝貢文化が強く影響したのではと考えられています。
これらの考えはひとつの推察でしかないですが、マルコポーロに影響を与えた文化などを解説します。
東方見聞録に登場するジパングの特徴
東方見聞録で、黄金の国ジパングは以下のように記載されています。
- 「1500マイル離れた大洋中にある大きな島」
- 「量ることのできないほどの大量の金を住民は持っている。」
- 「純金で覆われている、大きな宮殿がある。この宮殿の床や部屋は指2本分の厚さを持ち純金の板でできている。」
当時の西洋世界から見た東洋世界は「富」がある世界と考えられており、日本においては未開の地ということもあり、上記のような「豊富な資源」を特徴に持つ国として書かれていました。
日本の奥州に存在した中尊寺金色堂
東方見聞録に登場する文章である「ジパングは大量の金を産出し、宮殿などの建物は金でできている」。この宮殿は、当時の奥州にあった中尊寺金色堂とされています。
奥州は現在の岩手県であり、中尊寺金色堂は12世紀に東北地方の統制者だった藤原清衡によって建てられました。
中尊寺金色堂は、外観だけではなく中も天井から壁一面まで金箔貼りになっています。飾り付けているのは、夜光貝を用いた螺鈿細工や象牙、宝石などです。
中には阿弥陀如来をはじめ、観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天など、計33体の仏像がありました。
当時の工芸技術が集約された御堂は、極楽浄土の様子を表したそうで、戦乱の世界ではなく平和がつづく世界を願い作られたそうです。
黄金の国を象徴する金山
佐渡金山は、昔あった金鉱山のなかでもっとも大きかったとされており、1601年に山師により発見され有名になりました。閉山となる1989年までの間に、金の採掘が幾度も行われ、最盛期では年間400Kgの金が見つかったそうです。
佐渡金山は、発見されたあとに徳永家康の命令により幕府の直轄領に置かれます。江戸時代が終わるまでの約270年の間に41トンの金が採掘されており、徳川幕府の大きな収入源となっていました。
そのあとの佐渡金山は、金の埋蔵量が少なくなるとともに衰退の兆しを見せていくことになります。
1601年の発見から1989年の閉山までの間では、約78トンの金を産出しており、黄金の国を象徴する金山であったといえるでしょう。
中国への砂金などの贈りもの
昔の日本の有力者たちは、中国に対して朝貢という貢ぎ物を送る習慣がありました。
当時の権力者である奥州藤原氏は、中国に砂金や馬を送りつづけていたと言われています。また、遣隋使以降の日本の中国使節は、滞在費用として中国に砂金を持って行くこともあったそうです。
ほかに、当時の日中貿易は、中国に対して大幅な赤字の状態だったため、代金の支払いに砂金や水銀を使っていたこともあり、日本から中国に金をはじめとした、価値の高い贈りものをする文化がありました。
黄金の国ジパングは日本ではない説の理由
東方見聞録には、日本について「人を食べる文化」「香辛料が豊富にある」といった、当時の日本が持つ事実とは異なる内容が記載されていました。
ここでは、東方見聞録に書かれた異なる事実について解説します。
マルコ・ポーロは日本に上陸していない
マルコポーロは日本に訪れたことはなく、「黄金の国ジパング」は人伝に聞いて書かれた内容です。実際に、東方見聞録ではマルコポーロ自身が見た物事だけではなく、他人からの情報も記述されており、本書の160章では日本に上陸していないと書かれてます。
このような事実があるなかで「黄金の国ジパング」が書かれた理由としては、「旅行記」としてではなく、当時西洋で読まれていた「百科事典的伝統」としての性格が強いと考えられるためです。
香辛料が豊かな国である表現
東方見聞録では、日本について「この島に生えている木々は、いずれも強い芳香を放ちすこぶる貴重な香木」「黒胡椒はもとより、雪のような白胡椒も豊富なのである。」といった記載がされており、香辛料が豊富にある国として書かれています。
当時の日本は香辛料に富んだ国ではなく、実際には、中国や東南アジア諸国のほうが香辛料に富んだ国です。
このことについては「資源豊かな国」という印象を与えた、間違った記載だと考えられています。
日本にはないはずの人食文化についての記載
当時の日本には人食文化は存在しませんでした。しかし、東方見聞録では「黄金の国ジパング」のことを「捕虜を捕まえて身代金が払われない場合は、料理をしてみんなで食べる」と記載されており、人食文化があったとされています。
当時の西洋世界では、キリスト教圏以外は野蛮人しかいないと思われており、東洋世界では食人の風習があると考えられていたことに起因しているからとされる説が濃厚です。
誇大表現された内容の数々
東方見聞録における「黄金の国ジパング」という国は、前述の東方見聞録におけるジパングの特徴でも書いた「量れないほどの大量の金を住民が持っている」「金で覆われた宮殿がある」「住民は宝石も大量に持っている」と明らかな誇大表現をされています。
当時の日本は、金についても豊富に産出していたわけではありません。これら「資源に富んだ」という誇大表現は、未知の東洋世界に対する空想が生んだ内容とも言われています。
ロマン溢れる黄金伝説は想像が止まらない
東方見聞録について解説をしました。「黄金の国ジパング」は、日本のことについての記述ではありそうですが、人食文化・豊富な香辛料・金を持った住民など、異なる事実について記載されています。
当時の西洋世界にあった、東洋世界に対する幻想により生まれたのが「黄金の国ジパング」という可能性が高そうです。
今後も東方見聞録の知識が増えるにつれ、新たな事実が発見されるかもしれません。今もなお、知識人たちは黄金伝説の解明に注力しています。