「副業」が様々な大手企業において認められつつある。日産、富士通、花王、そしてリクルートなどではすでに副業が解禁され、最近ではロート製薬が副業を解禁するなど、国内の「副業」に関する風向きが変わってきているように感じる。
昔の「副業」といえばいわば「サイドビジネス」「お小遣い稼ぎ」のようなイメージで捉えられることが多かったが、今の副業は異なる。
”社員に副業を許可することは、ロート製薬が「社外チャレンジワーク制度」の導入にあたって
「会社の枠を超えて培った技能や人脈を持ち帰ってもらい、ロート自身のダイバーシティー(多様性)を深める狙いがある」
と述べているように、積極的な意味で会社が得られる利点も小さくはないだろう。”
出典:東洋経済オンライン
つまり、社員の副業は会社にとってもメリットがある、と考えられるようになってきたということだ。
これは大きな進歩である。副業が市民権を獲得するのみならず、副業自体を活かして、会社の経営資源にしてしまおうという考えだからだ。
もはや「副業」と呼ぶのではなく、「パラレルキャリア」、すなわちどちらの仕事も「主」であるとの認識が、ますます拡大していく可能性がある。
だが、大きな企業の中で働く人が副業を公認されるからといって、それが一気に広がるとは考えにくい。
なぜならば同じ大企業の社員であったとしても、
「副業がすぐに軌道に乗る人」と、
「どうやって事業を作ったら良いか全くわからない」
という人の二極化が進むと考えられるからだ。そして、前者の数は後者に比べて圧倒的に少ないだろう。
前者の方々は勤め先よりも何倍ものお金を副業から得られるかもしれない。一方で、後者の方々はリストラに怯え汲々とする、ということにもなりかねない。
そこまで極端でなくても、副業が認められる、ということは大企業の社員の中にも大きな「格差」が出てくるということだ。
同じ企業に勤め、同じ仕事をしているにもかかわらず、片方は副業で稼ぎ年収2000万円、片方は給与のみで年収600万円、なんてことも十分にありえる。
そこで気になるのは、「副業できる人」と「副業が出来ない人」の差はどこから生まれるのか、ということだ。
言い換えれば、前者と後者の本質的な違いは一体どこにあるのか。
その差はシンプルである。
前者は企業の中にいて「商売」を手がけたことのある人、後者の方々は企業の中にいて「商売」をしたことがない人々だ。
「業」、すなわち事業と呼ぶからには、ビジネスとして収益を上げる必要がある。
だが、収益について日頃から意識して働いている人は意外に少ない。特に、分業化された大きな組織ではなおさらだ。
彼らは「売ることは他の人がやること」と思っている。それでは事業はおろか、サイドビジネスすらできない。
例えば「私の仕事は設計ですから」という人がいる。
その方は、省電力の設計法をしっている、小型化のノウハウが有る、歩留まり率を高める設計を知っている、などスキルの高い設計技術者だとしよう。
だが、そのノウハウだけでは商売はできない。
「どうやってそのノウハウを商品とするか」
「どうやってサービスを知ってもらうか」
「お金をどのようにもらうか」
そういった「売る行為」と結びついて、技術は初めてお金になる。
逆に「事業の立ち上げ」や「商売」をしたことのある人は、何が売れるか、顧客が何を求めているかを知っているので「その技術を持つ人」を探せば良いだけだ。
そして、そのような人は「商売をやった人」に比べて遥かに数が多い。
クラウドソーシングのサイトを見ればわかる。技術を売りたい人は数多いが、技術を買ってくれる人は少ない。だから、クラウドソーシングは低単価の案件であふれている。
逆にいえば大企業の中にいて「事業の立ち上げ」や「商売」のスキルが身についている人には大きなチャンスだ。
大企業の中にある知識を使いつつ、自分の好きなことができるという、圧倒的に恵まれた条件で副業ができる。
「売る」という行為には下に示すように多くのものが含まれるが、彼らにはそのスキルが身についているのだ。
「マーケットを見定める」
「ニーズを探す」
「顧客を探す」
「商品を用意する」
「販売する」
「アフターフォローする」
「お金を回収する」
「再投資する」
逆に言えば「ものを売る」という事をすれば、これだけのビジネススキルが身につくのだ。それをやらない手はない。
そのためには本当に小さなことでいい。
例えば、地元で行われているちょっとしたフリーマーケットに参加してみる、ネットオークションに出品してみるといったことでも構わないし、クラウドソーシングなどで「副業の感覚」を掴んでみるのも良い体験であろう。
小さい会社であれば、営業部門の人間に「同行させてくれ」と頼んでみるのも悪くない。
副業の解禁が進むことにより、今後ますます「売る」という経験を持つ人が活躍することだろう。
企業の中で安穏としていたら、いつの間にか置いて行かれてしまった、という話がリアルに聞こえる時代は、すぐそこまで来ている。